中野刑務所看守殺害脱走事件
1961(昭和36)年1月21日
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1961(昭和36)年1月21日13:30、東京・中野区新井町336の936人収容されている中野刑務所から、窃盗で収容されていた清水義平(27)、武藤照雄(28)が脱走、刑務所裏の共済組合学生寮2階のトイレから、梁瀬三喜雄看守(38)が殴殺されて見つかった。2人は水道配管作業中で、青い作業着と地下足袋で逃走した。5ヶ月前に刑務所の配管工として2人は親しくなっていたという。昼食の後、所内で作業をしていたが、水洗トイレ工事で12:30に洗面台を取りに看守と大八車で裏の材料倉庫へ行き、その際に2人は看守をトイレへ誘って工事用バールで殴ったものと思われた。
 
1月22日8:40、北区王子1-10の王子駅前の映画館前で、王子中3年の男子生徒(14)の知らせで、王子駅前巡査派出所の署員は武藤に職務質問、連行して逮捕した。中学生は脱走犯ではないかと2人連れを尾行していて、もう1人は王子2丁目でいなくなったという。大人なのに丸坊主なので不審に思ったという。清水は北区豊島8-17の庚申通り裏の煙草雑貨商の女性(59)の家から自首の電話を入れて逮捕された。清水は12:30にいきなりやって来て、「自首の連絡を取って下さい」と頼んだという。2人は当初、板橋の志村にいる友人を訪ねたが、引っ越してしまいおらず、看守を殺して奪った3000円でカーキ色と紺のワイシャツ、ズボンを購入した。そして赤羽駅近くで飲み食いし、1月21日23:00、赤羽北町の都電通りを東に入った土管で別に寝た。1月22日4:30に起きて、映画を観ようと王子まで出かけたところ、武藤だけ逮捕となったという。


1963(昭和38)年3月28日に死刑が確定した。清水は、本事件を起こしたため数年で仮出所するところを死刑囚となってしまった。


この他にも、看守を殺害して逃走或いは未遂が数件ある。1952(昭和27)年11月29日、「大阪看板屋父子殺人事件」の中島英蔵は、1審で死刑を言い渡されて大阪拘置所で収監中、内妻から差し入れされた宗教本の背に隠しいれた金ノコで鉄格子を切断して脱走。2日後に神戸で逮捕されたが、脱走の動機は内妻に会いたい一心であった。その他、高野明(1949(昭和24)年6月26日死刑確定)、徳久炳浩(1949(昭和24)年12月22日死刑確定)、田村磨輝男(1960(昭和35)年8月4日死刑確定)、清水貞夫(1969(昭和44)年12月16日死刑確定)などいずれも即日逮捕されている。

山下栄一は、千葉・松戸市のヤミ屋一家3人殺人事件で東京高裁から死刑判決を受けて上告中。曽栄坤は、「世田谷松沢マーケット商人殺し」で同じく公判中で東京拘置所に収監。この2人は、1943(昭和28)年2月19日に東京拘置所を脱獄。翌日、逃亡先の京都駅前で逮捕され山下は1956(昭和31)年に死刑が執行されている(曽は不明)。

脱走してから逮捕されるまでの最長は「栃木・雑貨商一家殺人事件」の菊池正で東京拘置所から脱走して栃木の実家を訪ねる間の10日間を逃走し続けた。





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